ラガーマンの足跡をたどる旅
きっかけは1本の問い合わせの電話でした。「西野綱三さんが五輪で100mを走ったことを知っている?」「ええっ、まさか」
半信半疑で新聞の縮刷版を調べると、1923年5月、大阪での第6回極東選手権の記事を発見。短距離の予選に、名前がありました。現在のアジア大会の前身で「極東オリンピック」とも呼ばれていました。
ますます経歴が気になって開いたのは、ラグビー協会のWEB「デジタルミュージアム」。
終戦1カ月後に楕だ円球再開の試合を大阪で企画。関西のスポーツ団体をまとめ翌年の第1回国民体育大会を近畿で開く土台作りに奔走した姿を知りました。
不明を恥じていると、社内の部史「運動部75年」にたどり着きました。
灯台もと暗し。入社後記者として、ナチス主導のベルリン五輪などを取材。戦時中の海外勤務から戻り、後半は事業部門で活躍。84年に亡くなりました。
その足跡に会社の内外を縦横無尽に行き来した知力と活力を実感しながら、根底に流れる戦争を含めた多様な体験の積み重ねを思います。若き日の陸上をめぐる「挫折と転向」も改めて調べたくなりました。「身内ネタ」をおわびしつつ。
朝日新聞論説委員 西山良太郎